結婚相談恋愛
ジョルジュ・バタイユ
私はハイデッガーの立てたあの問い[=なぜ存在があって、無があるのではないのか?]の前に立たされる。私としては、この問いは不充分だとずっと前から考えていたので、もう一つ違う形で、問いを発してみようとした。つまり、なぜ私の知っていることがあるのか?という問いである。
ジョルジュ・バタイユ
戯れの哲学の可能性。それはキリスト教を前提とする。しかしキリスト教は苦痛と死の代弁者でしかない。そこから次のように想定することもできよう、存在は空間と持続に条件付けられておりそのことから一連の問題が生ずる、と。
ジョルジュ・バタイユ
私は、「実存主義から経済の優位性へ」(『バタイユ著作集・社会科学論集Ⅰ』所収)の中で、エマニュエル・レヴィナス()の『実存から実存者へ』について論じた。この論ではレヴィナスに関してやり損ねたことがある。
ジョルジュ・バタイユ
もし私が絶対知を「真似る」とすると、私は必然的に、私自身が神となってここに在る。(体系の中では、神においてさえも、絶対知を更に超えたところまで行く認識はありえない。)この私自身の-自己(イプセ)の-思考は、全一者になるのでなければ絶対的なものとなりえなかった。
ジョルジュ・バタイユ